【マカオ】サン・パウロ天主堂へ
バンジーの興奮冷めやらず…。
マカオに来た理由②‼️
「どうしても見たかったモノ」を今日は紹介します。
それはズバリ( ´ ▽ ` )ノ
こちらの“教会”です⛪️✨
その名もサン・パウロ天主堂(聖ポール天主堂)と言います。
こちら、しっかりと教科書にも載っている教会なんですo(`ω´ )o
いでよ、東京書籍📕
ほら‼️
1582年に建築が開始されたこの教会は、キリスト教カトリック系の教会でした。
まぁ残念ながら1835年の火災で焼け落ち、正面しか残ることはなかったんだけども…その姿がまさに幻想的でないですか??
昼の顔
夜の顔
夕暮れの顔
いろんな表情を見せてくれます。
まえてぃー滞在中、4回も通っちゃいました。
1人旅の良き所は「好きな時に好きなだけ」が可能となる所ですかね( ´ ▽ ` )
“びんぼっちゃまくん”みたい‼︎と言うでなかれよ笑
「完全」ではない所に、まえてぃーは圧倒的な魅力を感じているわけです(*´∀`)
人間もそう。
完全を目指すのは機械に任せて、不完全な人間を楽しみたいのだ。
という、自分への言い訳(*゚▽゚*)
とまぁそんなキリスト教の教会がなんで、アジアにあるかとゆーと…。
当時ヨーロッパは宗教改革の真っ只中。
これまであったカトリックか、新しい考え方を目指すプロテスタントか、とかで大荒れにモメてたわけですΣ(-᷅_-᷄๑)
それで、カトリックの人たちは、ヨーロッパ以外にもキリスト教を広めていこうってなって、アジアに進出していました。
その代表的な場所が、ここ「マカオ」です。
そして、その中の1人がみんなのよく知ってる…
フランシスコ・ザビエルさんです!
誰だよ落書きしたの…(。-_-。)
ザビエルは布教のためにアジアを始め、日本にやって来ました。
そして、多くのキリスト教徒を生み出しました。
日本でも当時、『キリスト教の教えを学ぼう』とゆうことで4人の少年がヨーロッパへ派遣されます。
今でゆう「留学」ですね。
それが、
天正遣欧(けんおう)少年使節団です。
日本でキリスト教を学んだ彼らは、当時14歳くらい。
中学生ですねぇ〜(°▽°)
彼らは日本の代表として、キリスト教を学ぶべく、ポルトガルの船に乗って、ヨーロッパを目指しました。
途中、このマカオやマラッカ、ゴアに寄りながら約2年かけてポルトガルに到着します。
飛行機もなければ海を渡るには『船』しかない。
いやーたいしたもんだΣ(-᷅_-᷄๑)‼️
そこで偉い人達に歓迎を受け、ポルトガルの他にもスペインやローマにも行き、色んなことを吸収していきました。
全ては日本を良くするために。
帰ったら英雄になるはずでした。
そして、日本を出発してから8年後の1590年、無事に日本に帰って来ることができました。
しかし、この8年の間に、日本国内の情勢は大きく変わっていたのです(๑•ૅㅁ•๑)‼︎
時の偉い人『豊臣秀吉』がバテレン追放令ってのを出してました。
バテレンとゆうのは神父さんや宣教師のこと。
ようはキリスト教を広めようとする人は日本から出てってってことです。
そんなぁー(● ˃̶͈̀ロ˂̶͈́)੭ꠥ⁾⁾って思います。
が、当時長崎を統治してた大名が、長崎をポルトガル化しようとしてたり、日本人が奴隷貿易(当時世界では奴隷は日常的に存在していた)に関与してるかもとゆうこともあり、そりゃイカンとゆうことで、この追放令を出していました。
そんな中、この少年たちは帰ったもんだから“歓迎”どころかその逆。
追放されたり殉教したりしたわけです。
その中の1人の少年がこのマカオに追放され、この地で生涯を遂げます。
追放されても腐らず、ヨーロッパで学んだ活版印刷の技術を活かして生きたそうです。
私はこのことを「先生」になってから知りました。
それまでは日本は「信仰は自由」とばかり思ってました。
でも自由になる前には必ず「自由でなかった時」があります。
信仰が「自由に至る前」があったことを知り、そして、その影で翻弄された若い命があったことを知り、いつかこの地を訪れたいと思っていました。
実際この地を訪れ、彼らはどんな思いで日本を出たのか、どんな夢を持って、どんな思いで死んでいったのだろう…。
そんなことが頭をよぎった。
宗教を語るには私は未熟ですが、信仰も思想も学業も職業選択も結婚も自由になった今の日本で、どんな道を選ぶ?
どんな道を進む?
どんな道を作る?
そんなことを考えさせてくれたこのサン・パウロ天主堂。
感謝。
もちろん答えは…ない。