【アルバニア】ギリシャから昨日行こうと決めたアルバニアへ徒歩で国境を渡ってみたら怒涛だった。
まえてぃーが初めて海外に行った時、
飛行機に乗って行った。
オーストラリアだった。
カナダからアメリカに行った時、
バスに乗って行った。
歩いて行ってみることにした(๑˃̵ᴗ˂̵)‼︎
メテオラのある「カランバカ」という町からバスで1時間ちょっと。
「カカビラ」という町から行けるらしい。
カピバラじゃないよ。
メテオラの宿のおじさんがそりゃもう丁寧に行き方を教えてくれた。
何時に、どこから、どんな感じの、バスに乗って、だいたいいくらで、到着するよ。って。
が、これまで説明されて分かったつもりでも自分のリスニング力の無さで何度も間違いを起こしているまえてぃー。
いや本当ね、まえてぃーの英語のリスニング力ヤバいよ。
あ、こういうことね!と思ったやつ、たいがい間違ってるから笑。
隣で聞いてた見ず知らずの旅人に失笑されるのにも慣れました👍
自分でも褒めたいくらい狂ってる私の耳。
あ、でも聴力はハンパなく良い。
聴力検査でもお医者さんに「え、これ聞こえるの!?」「ほとんどイルカだね」って言われたことあるくらい耳は良い😂
ここまでよく来れたもんだ。
そこで。
ちゃんと最近学んだんです。
紙に書けばいいんだと。
特に数字ってスゴいんです。
英語ってスペルも分からなければ言葉にしても発音違ったら伝わらないけど、数字って見るだけでほとんどの人が理解できる万国共通マシーンなわけですよ。
本当作った人天才(*゚∀゚*)
ので、時間とお金とかもバッチリ。
いざ、出発。
ここが国境。
何も書いてないから本当謎。
もうちょっと近づいて。
役人みたいな人に聞いてみた。
「ここギリシャですか?」
「そうだよ」
「あっち、アルバニアですか?」
「そうだよ」
「行っていいですか?」
「いいよ。パスポートはあそこで見せてね」
と言われ、人が2人入ったら満員のカウンターにパスポートを提出。
そして、スタンプを押され出国完了!!
まっすぐ行ってね。と言われ100メートルほど直進。
ここでも2人入ったら満員のカウンターが。
アルバニアの入国カウンターだ。
車で来る人と同じレーンだから抜かされないように車の前に立つまえてぃー。
いや強くなったもんだ。
そして一言。
「入れてください」
今思うと何とも直球。
そう、英語片言人間は直球しか能がない。
「パスポート見せて」と言われ提出。
ここで事件。
まえてぃーのパスポートをガン見するのであるΣ( ̄。 ̄ノ)ノ
そりゃもうちょっと見るとかじゃなく色んな角度から何ページにも渡り見まくっている。
挙句の果てには何かのライト当てたりどこかに電話したりしている💦
「え、なんで?徒歩だからですか??偽造じゃないですよ。そんなブラックルート持てるような人間じゃないんですが!!」
と心の中で必死に答える。
するともう一人の係りの人が一言。
「どこから来たの?」
「いや日本です!!」
パスポートお見せしてます!!
続けて。
「アルバニアは初めてかい?」
「とっても良いところだから楽しんでね」
と優しい言葉をかけてくれた。
なんか田舎のおじいちゃんに会いに来た感じがした。
そんな中チェック終了。
が、スタンプは無いらしい。
「ノースタンプなの?」と聞いたら
「うん。問題ない」と言ってくれた。
でも各国のスタンプってなんか“記念”みたいな気がして欲しかったなぁと思いながら後にした。
ようこそだって!!
歓迎されてるよー(*´∇`*)✨
そして、
「町までのバスは近くにありますか?」
って聞くと今度は2人そろって丁寧に
「100メートル歩けばあるよ!」って教えてくれた。
ラオスはまだ聞いたことあったし、行った人もけっこう見たけど、アルバニアってほぼ聞いたことも無ければ世界史の授業でも出てこない。
そして、行った人にも出会ったことない未知の国。
なんだかとても穏やかで優しい国っぽいとワクワクしてきた。
が、そんな中で洗礼。
客待ちタクシー運ちゃんの嵐💦
タクシーに乗れ。
こっちだ。
安いぞ。
色んなドライバーが声をかけてくる。
いやちょっと待って、アルバニアって国についてほんとまだ何も知らないんですよ。
物価とか通貨とかも何も知らなくて(ダメだろ)、今ユーロしかない。
バスが一回いくらでタクシーの相場も知らなければ宿もない!!
とにかく首都の「ティラナ」に行くしか決めてない😂
「徒歩で国境超えたい!」ってことしか考えてなくて、その他のこと考えるの忘れてたさ笑。
迫りくるタクシー運ちゃん達を交わし100メートルちょっと歩くとミニバンらしきものが!!
そこにいたおっちゃん達がどこに行くんだ?と聞くので
「ティラナ(首都)」と答える。
すると。。。
「乗れ乗れーーーーー!!」とまえてぃーのバックパックを奪うように車に乗せる。
いやちょっと待って本当に行くの∑(゚Д゚)?
そしていくらなのΣ(゚д゚lll)??
ここで気づいた。
“英語が通じない”
いや、ここで通じないのはまえてぃーが下手(それもあるかもだけど)とかではなく、みんな英語を話さないのだ。
「これがアルバニア語かー」とか感心してる場合ではない。
ほぼ拉致状態で車に乗せられた。
「怖いから乗らない!」ともはや日本語で言いまくる。
も、意味なく撃墜で乗せられた。
まえてぃー「ティラナ⁉ティラナ⁉」と連呼。
おじさんズ「ティラナティラナ」と連呼。
拉致されたらこんな気持ちになるのかと不安まくり。
半泣きで乗っていたその時!!
どうやら色んなバス停がありその都度バスは止まるらしい。
そこで1人のそりゃもうキレイな女性が乗って来た。
もう迷わず「ティラナ?」って聞いた。
そしたらお姉さんは英語が話せるみたいで、
「そうよ^_^」と。
神〜ヽ(´▽`)/
続けて。
「でも乗り換えが必要で、その街で私は降りるから一緒に降りましょう」とまで言ってくれた。
良かったーーーー!!
いくらなのかという心配はあるもののとりあえず拉致ではないらしい。
乗ってる間お姉さんはアルバニアのこと色々教えてくれた。
自然がとっても豊かきれいな景色が多いってこと。
遺跡や城跡とかの文化遺産も多くて観光にも最高よって。
でも毎日朝の6時から仕事ってのが辛いところね、とまで話してくれた。
お姉さんは会計士を国の機関でしているそう。
スーパーかしこじゃないか💦
乗り換えのバス停に着くと、おじさんズがまた怒涛の勢いでまえてぃーに向かって「ティラナティラナ」と言って引っ張っていこうとする。
お姉さんも「ついていって大丈夫よ」というのでここでお別れ。
自分史上最高のハグをした。
そして、とあることに気づいた。
「おじさん、ここまでのマネー払ってないよ!!」
するとおじさん。
「は?マネー?」
「そう、マネーまだだよ!」
となぜかこっちがアピール。
「そうだっけ?2ユーロ」だよ。
や、安かった。。。
40分は乗ったであろうこの勢い半端ないバス。
ある程度の高さとぼったくられ感は覚悟していたがおじさんズはそんな様子のかけらもない。
お金に興味ないのですか?と聞きたいくらいサッパリしていた。
2ユーロ払い、おじさんが乗り換えの場所まで連れていてくれて無事にティラナ行(約2時間7ユーロ)に乗ることが出来ました。
昨日行こうと決めたアルバニア。
その理由。
“国旗がカッコ良い”
🇦🇱🇦🇱🇦🇱🇦🇱。
双頭の鷲に赤と黒だよ。
たったそれだけで決めたアルバニア。
不安ももちろんあったけれど、このたった1時間で色んな先入観がぶち壊された徒歩でのボーダー越えでした。
【ギリシア】アテネ。つ、ついにここ、アテネなんです。
つ、ついに歴史の原点とも言える場所。
毎年世界史を担当するたびに何度“ギリシャ”と連呼したことか。
その度に、「ま、まえてぃーは行ったことないけどね( ̄∇ ̄)」ってごまかしてきましたがこれからはそうはいきません!!
「2500年前はこうやったけど、今のギリシャはこうだからね~」とか言えてしまう(*´∇`*)
(先生に戻ればやけども。。。)
さっそく!!
遠くから遺跡を眺めることのできる丘に行ってみました。
え?
なんで先に行かないのかって??
空港泊でほぼ寝てないのよ。
こんな感じ笑。
そんなボロボロの状態と変なテンションであのパルテノンさんに会うなんてできない(๑˃̵ᴗ˂̵)
ので一晩ぐっすり寝て明日会いに行くのさ〜🏃。
ただ、現在の時刻はまだ13時。
そこでやってきたのがここ。
“リカヴィトスの丘”
標高273メートル。
アテネ市内を一望できる丘。
が、
おびただしい階段と獣道!!
が後から知ったがまえてぃーは裏道みたいなところを通ったらしくメインの道はちゃんと整理されててサボテンに刺されることも無かった😂
到着!!
その景色。
ご覧ください。
アテネの街並みって“白い”んですね。
すご統一感があってステキすぎる。。。
そして目的のパルテノン神殿の方向に目をやる。
そしておもむろに相棒(教科書)を取り出す。
そして付箋チェックしていたページを開く。
・・・。
…。
おんなじーーー!!!
このパルテノン神殿は歴史に興味のない人も、何かは分からないけれど見たことあるって人多いと思います。
ので簡単に補足ね。
パルテノン神殿は2500年前に建設された神殿です。
ここアテネを守る神「アテナ」を祀るための場所でもあります。
ギリシャ神話がここから始まっていくわけですよ!!
アテナは戦争と工芸、知恵の神様と言われローマでは「ミネルヴァ」とも言われます。
あ、聞いたことある人いません??
ゲームやアニメのキャラや戦艦の名前とかでよく使われる名前ですよね(´∀`*)
まえてぃーはゲームの中でもRPGが大好き。
そこに出てくるキャラや召喚獣とかの名前にこのギリシャ神話の神々の名前が使われていることを知った時の喜び。
“運命”
を感じた笑。
もちろん神々はフィクションかもしれない。
でもフィクションにしてはとても綿密で人間らしいこの神様たち。
おってまたお伝えしていければと思います。
ひとまず今日は到着した喜びを伝えさせてもらえたらと思います。
「いま会いに行きます」からねー!!!
【マレーシア】マラッカのあの人に会いに行ったら奇跡だらけだった!!
マラッカ。
それは日本にとって運命が動いたと言ってもよいほどの土地。
ラオス滞在中にスリランカへ行くならクアラルンプールからがいいかもと聞いて調べたらなんとまえてぃーリサーチ(タイ経由)より2万円も安く行けるではないか∑(゚Д゚)!!
私のリサーチ力って…💧
情報をくれたニューフレンドに感謝。
そしてマレーシアでとっても美味しいパクテーに連れて行ってくれた。
再び感謝(*´∇`*)
プルプルで飲み物のようだった✨
そして、
こんなたまたま乗り継ぎの関係で立ち寄ったマレーシアだが、歴旅中のまえてぃーとしてはどうしてもチラッとでも良いから向かいたい場所があった。
それが。
マラッカ。
大航海時代の頃、東西の貿易を結ぶ最も重要な拠点とされたこのマラッカ。
今では街ごと「世界遺産」。
1511年、この地にあったマラッカ王国はポルトガルによって占領され、宗教もイスラム教からキリスト教へと変わっていきました。
そのキリスト教の布教を行なっていた人物こそが!!
by教科書(東京書籍)
同僚の先生が寒いだろうからと頭頂部に髪を生やしたザビエルさん。
あのペリーと並ぶ日本人にとっての知名度の高い外国人、フランシスコ・ザビエルさんなのです(๑˃̵ᴗ˂̵)👍
ザビエルがマラッカで布教の拠点としていたセントポール教会。
天井の無さと壁の重厚感に歴史を感じずにはいられない。
光のさし具合もたまらなくステキ。
ここで思い出した。
まえてぃーの歴旅初期で訪れたマカオ。
そこにもザビエルゆかりの地となるセントポール教会があった。
覚えてくれてます??
マラッカのセントポール教会は天井がなかった。
これも何かの繋がりがあるのかな…。
そのフランシスコ・ザビエルがポルトガルからこのマラッカに来ていた時、1人の日本人と出会ったそうな。
その名を。
「やじろう」
やじろうは何とも訳ありの元武士でアジアを旅していたそう。
この時代に旅だよ!!
1500年代だよ!!
500年以上も前なんだよ!!
スマホもなければネットも無いし翻訳アプリも無ければ語学学校も無いんだよ!!
やじろうすごすぎる…( ̄▽ ̄;)💦
彼との出会いでザビエルは「日本」という国に興味を持ち、布教しに行くわけです。
いわば彼と出会わなかったらザビエルは日本のことは知ってるけど来ていなかったかもしれませんね。
出会いって深いなぁ。。。
そして、そのあとはみなさんのご存知の通り、日本にキリスト教を広め、現代まで広がる超有名人になりました( ̄^ ̄)
そんな歴史の分岐点の場所こそが、ここマラッカなのです。
が、このマラッカでのザビエルはそれだけじゃありません。
ザビエルの奇跡があるのです。
ザビエルは亡くなったあと遺体をインドのゴアに移されるまでの約9ヶ月間、その遺体をマラッカに置かれます。
ザビエルが安置されていたと言われる場所。
今でも多くの人が祈りを捧げコインを投げ入れていました。
たくさんのコインの数だけたくさんの祈りと願いがあるんだよね。
ザビエルの遺体が安置されて9ヶ月後、遺体をインドのゴアに移すため掘り起こしたらなんと!!
遺体が腐っていなかったらしい💦
え、そのままなのザビエルって。
やっぱスゴイ人、いや、人なのか!?
遺体が白骨化することなくミイラっぽい姿で残ってたんですって。
いやもうなんとも言えない…💧
インドに移されてもザビエルの奇跡は続きます。
死後60年ほどたった時、イタリアのローマ法王がザビエルの死は本当か??となり、ザビエルの右腕を切断し持って来させました。
すると。。。
切断した右腕から血が流れたんだってーーーーΣ('◉⌓◉’)!?
60年だよ、血ってそんな潤い続けるものなの??
ってかもうザビエルって生きてたんちゃうん!?とか思ってしまう。
にわかに信じ難いですが、それこそが歴史の持つ“ロマン”だから信じずにはいられない(๑˃̵ᴗ˂̵)✨
そしてね、、、
挙げ句の果てには。。。
教会の側にはマカオには無かったザビエルの像があります。
それがこちら。
白く美しいですね。
このザビエルの像。
どこかおかしくないですか??
けん玉も置いてみた。
そう、
右腕が無いんです。
ほら!!
ほらほら!!!!
あ、右腕はローマ法王のとこに持ってったから同じようにしたのかー!!って思ったまえてぃー。
が、
まさかの理由は、、
“台風で落ちた”
ほんまかーーー( ̄▽ ̄;)!!!
そんな偶然ある!!?
右腕を無くしたらもれなく像の右腕も無くなるものなの!?
「遺体は右腕を無くしたんだから像もそうでないとおかしいよ」って天国からザビエルが教えてくれたんでしょうか。
ほら、ザビエルって聖人だから天国にいるでしょきっと。
上からだからきっと丸見えだったんだよ。。。
なんとも不思議なこのマラッカのザビエル像。
そんな奇跡のザビエル像に、ぜひ会いに来てください✨
ザビエルに祈りを捧げるとどんな悩みも癒されるという話もあります。
余談ですが。。。
日本でザビエルの有名な写真だと頭に髪の毛がないですがこの像ではしっかりとあります。
そりゃもうフッサフッサ。
よって、ザビエルはハゲではなかった説が有力かと。
実はあの髪型は「トンスラ」という頭頂部を剃る宣教師に多くみられる「髪型」なのです(^^)
日本ではトンスラバージョンの写真が出回ってるので髪がない説が広まりましたが、海外では髪がある方が多いようです。
わざわざ塗らなくても良かったですよ!
マラッカはそれほど大きくない街なので、半日もあれば十分歴史もグルメも満喫できると思います。
え?
方向音痴なまえてぃーがそんな効率よくできたのかって(^_^;)??
そう、マラッカには救世主がいたのです。
その名もスティーブ!!
彼はマレーシア生まれのハワイ在住のおじさま。
たまたま寄ったマラッカでウロウロ&オロオロしていたまえてぃーを見つけて声をかけてくれて一緒に回ってくれたのさー(๑˃̵ᴗ˂̵)👍
彼は照れ屋なので写真はありませんが、まえてぃーの知らない歴史も教えてくれて本当にザビエルの恩恵かと思いました。
マラッカよ、ありがとう!!
また来ます!!
ゆっくりと(^ ^)✌️
会ったこともない人に、今日も支えられて生きてます。
今日はお姉ちゃんの命日。
といっても2歳で亡くなって私の生まれる前のことだから会ったことも無ければ思い出もあるわけじゃない。
生まれた時から心臓に病気や障がいがあって家に帰れたのもほんの数日だけだったよう。
家に飾ってある赤ちゃんの写真を見るたび「これ誰〜??」って親に聞いたりしていた。
「お姉ちゃんだよ」って言われると「お姉ちゃんにも年下がいるんだぁ」とか思っていた。
亡くなってから私が生まれた。
親から、もし亡くなってなかったら私は生まれなかったかもしれないって聞いた。
10代の頃だったので何とも複雑な気持ちになった。
大学では福祉を学んだ。
そこで重度の障がいを持った子どもの施設へ見学に行く機会があった。
一生寝たきりの子。
檻のようなベッドにずっと寝かせられてる子。
誰も面会に来ない子。
言葉がなかった。
そして、自立支援施設(ヤンキーの支援施設)で研修生をしていた時、姉と同じ病気や障がいを持った人たちの施設で実習をした。
実習中は笑顔でハキハキ動いていたし関わっていたつもり。
でも、
その時、なんで障がいなんてあるんだろう。
なんでこの人たちは生まれたんだろう。
生まれることになんの意味があるんだろう。
とか、思わずにはいられなかった。
どれだけ「福祉はこうあるべき」とか「どんな命も大切に」とか学んでも、ただの理想としか思えなかった。
障がいを持った人や家族の抱える数々の苦労を見るたびにそう思ったし、生まれない方がよかったんじゃないかって思う時もあった。
そして、姉は死んで良かったのかもとさえ思った。
その時、何がきっかけきは覚えてないがある職員さんにその話をした。
姉のこと、障がいや病気のこと、こんなこと思う自分は支援者には向いてないんじゃないかと。
人に話すのは初めてだった。
こんなこと「思ってはいけない」と隠してきた。
後日、その職員さんが手紙を書いて朗読してくれた。
そこには
「あなたがそう考えることが、お姉さんの生まれた意味で、お姉さんからのメッセージなんです。だから意味はあるし、あなたがいろいろ考えたから今ここにいるのでしょう?」と。
初めて泣いた。
初めて肯定的に姉と自分のことを受け入れられたと思った。
姉のことがなかったら私は障がいや病気というものに無関心で無頓着で、より多くの人を傷つけ生きてきたかもしれない。
もちろん知らず知らずのうちに人を傷つけてはきただろう。
でも少なくとも、もらった命は精いっぱい使い切る。
あわよくば誰かの力になれるような使い方をしたい。
自分を照らしてくれる人や場所を探すより、誰かを光らす人や居場所になりたい。
と、思うようになったのはきっと姉の力だろう。
姉の残してくれた「考えること」を力に変えて自分自身を生きていきたいと思えた。
その実習が終わって、とあるヤンキーとタケノコを切っていた。
タケノコと言っても調理ではなく、施設内の山にタケノコが生えていて、立派な竹になる前に切って食らうということが目的だった( ̄∇ ̄)
ギーコギーコとタケノコを切りながら、
「いろいろ考えたわー」「難しいねー、障がいをもつ人の支援って」とか世間話的に話をしていた。
するとそのヤンキーが一言。
「そんなんね、五体満足の奴がちゃんとしたら良いんですよ」
…。
頭にカミナリ⚡️。
そう、「ちゃんと」すればよいだけだ。
「ちゃんと」
なんて素晴らしい言葉だ。
手がなかったら手を貸せば良いだけのこと。
理解することが難しかったら伝え方に工夫すれば良いだけのこと。
子どもがパニックを起こし車内で頭を下げるお母さんに「大丈夫ですよー」って言えば良いだけのこと。
ただそれだけのことだった。
まえてぃー「じゃあうちらは障がいを持ってる人にちゃんとできるか試されてるってこと?」
ギーコギーコ。
ヤンキー「あー、そうっすね。試されたら、、、負けたくないっすね。」
ギーコギーコ。
まえてぃー「え、勝負なん?」
ギーコギーコ。
ヤンキー「はい。でもみんなが優しくなるから良くないですか?」
ギーコギーコ。
ギーコギーコ。
まえてぃー「ほんまやな(*⁰▿⁰*)」
ヤンキー「ね、単純じゃないすか。」
ついつい頭でっかちになって「こういう場合はこう」とかうんぬんしてたけど、こうズバってなる方がまえてぃーには向いてるしみんなもそうだと思う。
ありがとう、共にタケノコを切ったヤンキー。
現に高校で障がいを持った子に特別なサポートとかをすると他の子からやれ「差別」だの「ひいき」だのの声が上がる。
保護者からも上がる。
丁寧に説明する場合もあるが全員の前で一言。
「わかるやん。」
シーン。。。
「えぇ、まあ。」
さすが空気読める世代。
いや、みんな本当は分かってる。
「わからん?」
「わかるやろ。」
「わかるやん。」
大概この3つで誰からも文句が上がらなかったというのは一度や二度ではない。
「ズバっと単純」の力は大きいのである。
旅ブログのはずが最近思うことばっか書いてるけど、それも「ひとり旅」に出たからだと思う。
1人になって、いろんな歴史や人や文化と出会って、でも話す人もいないし自分の中で考えることがより増えたんだと思う。
それをこんな風に発信するようになったのも、自分に対して、人に対して、前よりも「素直」になれてきたかもしれない(*´ー`*)
正直今でも自分が恋愛して結婚して出産することや親になることとか想像できない。
もし障がいを持ってたらとか、パートナーに拒まれたらとかいろいろ考えてしまうし、“恐い”って言った方が良いかもしれない。
でもどんな命にも意味があるってことは学べたつもり。
消えていった命がより意味のあるものになるよう、このまえてぃー、どこに向かってるかは分かりませんが走っていきたいと思います。
そう、先のことは分からんけれど、とにかく、今日も全力で消費してまーす!!
at オリンピア遺跡にて。
この後当時の競技場を全力疾走したよ。
195メートル。
吐きそうになったよ。
はなちゃん(姉の名前)、私は今日も元気です( ´ ▽ ` )ノ
選挙って命のバトンなんだね。若者、ちゃんと考えてます。
日本ではもうすぐ「選挙」がありますね。
ちょうど「選挙と生徒とまえてぃーエピソード」を思い出したので今日はそのことを書きたいと思います。
先日、といっても夏頃ですが、嬉しい依頼を頂きました。
まえてぃーが先生をしていた学校で卒業生が集まる同窓会があり、そこにメッセージをもらえないかという依頼でした。
こんな突然「世界の歴史に会ってきます!」と言って巣立った私に連絡をくれるなんて本当に有難いことです( ̄^ ̄)
だから動画で送りました。
カンボジアのアンコールワットの前から溢れるばかりの元気とエールを込めて。
~以下メッセージ~
みんな元気~!?
社会人生活や大学生生活頑張ってますか??
[省略]
日本は今年戦後72年ですね。
ここカンボジアでもNHKが見れて、終戦の日に戦争の特集を見ることが出来ました。
授業で戦争や社会について触れる時、「必ず伝えること」がありましたね。
きっと忘れてると思うので改めて。
“選挙へは行こう”
何(๑•ૅㅁ•๑)⁇突然、って言われるかもしれませんが、単純です。
“選挙へは行こう”
いや、まえてぃー的にはこうだな。
“選挙権を活かしてあげて”
「忙しい」「よくわからん」「どうせ変わらん」「政治家はあてにならない」とか、行かない理由を正当化することも出来るけど、みんなの持つ一票は、決して軽い道のりを歩んできたわけじゃないです。
日本の戦後72年。
去年は戦後71年で来年は73年になる、かもしれないし、ならないかもしれない。
これは実際に戦争があったということ、そして72年間平和を守ったってこと。
72年戦争をしていない国は本当に少ないんよ。
つまり、世界では戦争は当たり前。
日本で今、戦争が起こったって、驚く国はあまりないんじゃないかな。
そんな日本が参戦した第二次世界大戦。
当時、「選挙権」は25歳以上の男性しか持っていませんでした。
でもご存知の通り、特攻や徴兵で亡くなったのは誰やっけ?
沖縄のひめゆりで亡くなったのは誰やっけ?
10代の若者やろ?
みんなと同じくらいの子が選挙権もなく、国にもの言うことも出来ず始まった戦争のせいで死んでいった。
夢も叶えたかったやろし、恋もたくさんしたかったやろし、何よりも、こんなに短い人生を送るために生まれてきたんじゃないよね。
空襲や原爆でも多くの罪のない人たちが亡くなり、たとえ死ななくても辛く、悲しい時間を本当に多くの人が過ごしてきました。
悲しい時代を、この国は政治と共に歩みました。
そして戦争が終わり、大人たちが選挙権を20歳以上の男女にし、今は18歳の男女全員が選挙権を持てるようになりました。
お金とか払わなくても国に物言えるわけです。
誰に投票するとか今は分からなくてもいい。
“一票を投じる”ってことは、
“自分はここにいるよ”って存在を表す意味もあるから。
もし選挙に行かないとね、
「自分はいませんから気にしなくていいですよ」
「どんな国になっても文句言いませんよ」
ってサインになっちゃうわけ。
ただ単に困るよね。
10代や20代の投票率が上がれば、政治家は若者に興味を持ち、危機感を抱き、若者のために動くようになるよきっと。
だからどんなに自分が人生に悲観してようが途方に暮れてようが、昔の人が受け渡してくれた一票は大切にしてあげてね。
多くの国を旅していると、選挙がないのはもちろんのこと、投票に監視がついたり、誰に入れるか強制されたりということもある。
だからより、日本の選挙の自由と平和は、すごいことだと知った。
政治のこととか詳しいことはまえてぃーだって分かりません。(ダメだろ)
でも、先人たちが遺してくれたもの、託してくれたものだってことは分かります。
それだけは大事にしたいし、みんなにも大事にしてほしい。
最後に、国の歩む道に興味を持たないと、国というものは知らず知らずのうちに私たちを行きたくない方向へ導いていく時があるんだよ。
それは戦争のことかもしれないし、税金のことかもしれないし、教育のことかもしれない、、、。
国民が政治家を育てる。
色んな国をして、そういう考え方を持つことも大切だなって思いました。
~それでは、また会う日までお互いイキイキしていきましょう~
以上がメッセージでした。
ちょっと加筆した所もありますが笑。
まえてぃーは子どもの頃、選挙のたびに好きなテレビ番組が無くなるので勘弁してくれと思っていました。
そして、二十歳になり選挙権をもらったとしても、「どうせ分からんなぁ」と、とりあえず行くって感じで、正直行かない時もありました。
でも、世界を旅したり、先生になって日本の歴史を知る中で、“選挙”と“選挙権”が当たり前にある国は、決して多くはないということを知り、上記のようなことを高校生たちに伝えてきました。
するとこんなことが起こりました。
約1年前の同窓会。
卒業生たちが学校に遊びに来てくれました。
その頃、大阪で新しい高校となるキャンパスを立ち上げて2年目で、卒業生は10人程度しかいませんでした。
その卒業生たちが高校3年生の頃、毎週一緒に授業をしていたわけですが、なんてったって通信制は生徒も自由なら先生も自由。
結果、授業も“自由”にしていました。
(もちろんちゃんともしていた)
そこでは毎週水曜日の1・2時間目のまえてぃーの授業で、1年を通してずーーーーっと「グループワーク」してました。
「グループワーク」とは生徒同士が色んな関りを通して、意見を伝えたり、受け取ったり、考えたり、作り上げたりする時間だとまえてぃーは解釈しています。
一般的な授業って、先生が説明して生徒が受け取るってスタイルですよね。
でもなんかそれって、彼らが巣立ってからイキイキと自分の心と行動で生きていける力が身につくのかな…と疑問に思っていました。
(忍耐力は間違いなく身につくが)
だから、できる限り通常の授業でも1人1人に1回は質問をして、考えてもらったり表現してもらったりしていました。
が、この学年は何てったって少人数。
意見も言いやすいし融通も利く。
ので、ゲームやディベートや色んなワークを毎週90分ぶっ通しでやってたわけです。
まぁ簡単に言えば“コミュニケーション”の授業って感じですかね。
そりゃけっこう考えました。
どうしたら関わりやすいか。
考えやすいか。
ふざけやすいか。
ふざけすぎないか。
遊んでるうちに学べないか。
気づいたら夢中になれないか。
また来ようって思えるか。
どんだけ準備や勉強しても、大切なのはまえてぃーが完成させることでなく、彼らがどう自分で完成させていくかだから難しかった。
でも、今思うと本当に楽しい1年間だった。
他の先生には
“毎回遊んでるだけでいいね”とか、
“授業らしくしてください”とか言われたことある。
まえてぃーの「先生」としての評価は、決して高くなかったかもしれない。
でも、私たちの「仕事」は「先生」が「先生」らしくすることなんだろうか?
「先生」が思うような「先生」を演じていれば、生徒は幸せな未来を手に入れることができるんだろうか?
まえてぃーは違うと思った。
向き合う彼らが、彼らの人生を、彼ら自身の手で歩く力をつけるサポートをすることが先生の仕事だって思ってた。
もちろん今でも。
そして、彼らは無事に卒業。
そして、数か月後の夏に再会。
すると1人の生徒がまえてぃーに一言。
“そういえばオレ、選挙行ったよ”
するとそれを聞いた他の子も、
“あ、オレも行ったよ”
“おれも”
“わたしも”
・・・。
なんとその場にいた全員が選挙に行っていた。
それは選挙権が18歳になって初めての選挙。
若年層の投票率が低いことは知っていた。
それがどうだろう。
ここでは100%だ。
“え、マジで⁇なんで⁇”と思わず聞いてしまうまえてぃー。
すると。
“だってまえてぃーの授業受けてたもん”
“あの授業でけっこう考えたし、できることはしないとねって思った”
“若い人が選挙行くと政治家の人も若い人に興味持ってくれるって思えたし”
“政治はよく分からんけど「選挙権」は大事にしないとと思ったし”
“選挙権って命のバトンみたいだね”
…。
まえてぃーの中だけ時が止まったようだった。
大学生の子もフリーターの子も、みんなそれぞれの考えを持って一票を投じに行っていた。
こういう時に先生やってて本当に良かったなって思う。
私たちの仕事なんてものは、決してすぐに結果が出るようなものでもなければ見えるものでもない。
ましてや何が良い結果なのかも分からない。
でもこうして、自分のことだけじゃなく、社会の中の自分って意識もしっかりと持っている彼らに感動した。
決して彼らをディスカウントしていたわけじゃない。
ただ、自分の想像をどんどん超えていく彼らの姿に驚いただけ。
たかが選挙でと言うでなかれ。
みなさん、選挙、行きますか?
若者はちゃんと考えてます。
一方、
大人はちゃんと伝えられてるんだろうか。
大人こそ選挙の持つ意味を、しっかりと理解できてるんだろうか。
改めて自分に問う。
私は日本人。
日本の国の一員。
これ、事実。
そして世界一周中に突然起こった選挙。
海外にいる場合、3ヶ月はその土地に住んでないと大使館での選挙は不可能。
こんなこと書いてる自分が選挙に行けないということを知った後のうしろめたさ。。。
選挙が突然行われるなら旅人や短期で留学してる人にも優しい選挙制度が欲しいなととも思いました。
さて、どうしたものか。。。
今できることと言えば、こんなブログを書いて伝えることしかできないけど、彼らに負けず行動できる大人でいるぞ、という決意をした1日でした。
去年の夏、まえてぃー黄昏る。
【ラオス】ラオスはこのルアンパバーンで完璧!!自然と象とたまにカフェがあなたの全てを癒します!!自然編。
ラオスのテーマは。
ずばり。
“言葉はいらない”
です。
正直、ラオスの前情報は、
“何もないのが魅力”
とだけ聞いていた。
だからまえてぃーは、“自然に囲まれてのんびりできる場所”というイメージしか持っていなかった。
でもそこには大自然というよりかは、“人”と“暮らし”と“自然”が居心地よく共生しているという感じだった。
決してブログを適当にしたわけじゃない。
“言葉がない”
ということが一番“伝わる”と感じただけですd( ̄  ̄)
ので今日は写真尽くしで参りましょう(о´∀`о)
ルアンパバーンに到着した次の日、とてもキレイな滝があるということで向かうことにした。
「どうやって行ったらいい??」って宿の人に聞いたら、「タクシー(トゥクトゥクの大きいやつ)で行くのが普通だよ」、とのこと。
もしくはバイクをレンタルするかだよ。とのこと。
まえてぃーはバイクも運転できないのでタクシーで行くことにした。
が、またもラオ人の優しさを受けました。
“現地価格のタクシーを僕が拾ってきてあげるよ”
ありがたいこと限りなし。
そして連れて行ってもらった先がコチラ。
“クアンシーの滝”
ね。
言葉、
いらないですよね(๑˃̵ᴗ˂̵)✨
吸い込まれるような水の色と滝のパワー。
一面の山と森。
なんともミルキーま水に気が付いたら吸い込まれるように服のまま入っちゃってました。
あの水の中で“プカ~”って浮いてると、どんな高級マッサージを受けるよりも心も身体もリラックスできる気持ちになります。
水の恩恵を受けまくりました。
そして、宿から徒歩で行ける丘から見える景色と夕日が素晴らしいということで行ってみました。
ちょっと階段はキツかったけどそこにあったのは。。。
ね、
こんな「街並み」見たこと無かった。
水は「透明じゃないとキレイじゃない」という概念を根底から覆してくれた。
メコン川は透明じゃないけど“キレイ”だ。
そして、家々と緑が共存。
自然と人が“穏やか”という時間の中に共存していると感じたルアンパバーンの街並み。
今まで生徒に見せたい景色は「自然のみ」が多かった。
心のどこかで「人の住む場所」を排除していたのかもしれない。
でも、
このルアンパバーンで“生徒に見せたい街”ができた。
ぜひこの街に“会いにおいで”ね!!
【ラオス】いざ、前情報なしの国、ラオスへ上陸!!
ハノイからラオスのルアンパバーンまではバスで行けるとのこと。
そのかかる時間。
24時間。
ベトナムのホーチミンからハノイの48時間に比べたら近いじゃーん!
・・・。
とは全くならなかった。
あの地獄のぼったくり巻き込まれツアーのダメージがまだ癒えていない。
そしてラオスの道はあまり良くないらしいと聞いたのでここは奮発!
飛行機だーヽ(´▽`)/
ということでちょっとリッチに2万円ほどかけてひとっ飛びすること2時間。
さぁ宿まで何で行く?
タクシーかなんだ!?
何があるのだ!?
いくらするんだ!?
どんなぼったくりがいるのだ???
ほぼ前情報なしで来た&ベトナムのトラウマもあり人間不信。
到着口から出ると早速、「タクシーこっちだよー」の声。
ほら来たo(`ω´ )o
おっちゃん達が、笑顔でタクシーはこっちと呼んでいる。
いやちょっと待って、考えます的な雰囲気を出しながら空港を見渡す。
ん??
移動手段が。。。ない。
どうやらタクシー一本のようだΣ(-᷅_-᷄๑)
まじかーと思い料金を聞くと「50000キープだよ(700円)」とのこと。
え、一律価格?と思いまたまた聞くと、「そうだよ、宿はどこだい?宿の前まで行くから教えて。あ、友達も一緒?3人までなら50000キープでいいよ」とのこと。
。。。
天使かーーー(*⁰▿⁰*)!?
何この仏さま感。
5・6人のおっちゃん達がみんなニコニコして説明してくれている。
ATMはあっちだよ、とか、どこから来たの?とか人ってこんなに暖かかったのかと思ってしまうくらいだった。
でも決してベトナムの人がみんなぼったくるわけじゃないから!!
タクシーはバンみたいな相乗りになってて、人数がある程度集まったら出発するスタイル。
待ってる間、ラオ語を教えてもらったりした。
とても楽しかった。
ルアンパバーンには4日ほど滞在する予定にしていたが、この瞬間から心が踊り続けていた。